ついに完結!?「認知戦」とかいう《長いので中略》よく分からない読売新聞はやっぱりすごい(さらば夢追い集団たちよ)

《広告》

この記事のこの場所に「この記事には広告が含まれます」という一文が目立つように書いてあります(ここはそういうところですよ?)
《以上広告アナウンスでした。以下広告混じりの本文》

「過去のあらすじ(ナラティブ?)」
「認知戦」とかいうものを仕掛けているのか仕掛けられているのかよく分からない読売新聞はやっぱりすごい”[2026/03/25公開]
続・「認知戦」とかいうものを仕掛け《長いので中略》よく分からない読売新聞はやっぱりすごい(2ndシーズン)”[2026/03/30公開]

8月10日(月)の読売新聞朝刊1面のトップ記事は、

自衛隊指揮に国産AI
情報収集・分析 迅速意思決定
政府導入検討

「新しい戦い方」対応 「サカナAI」有力

読売新聞2026年8月10日朝刊大阪本社版、13S1面。記事の大小の見出しを抽出して引用。実物の紙面では文字の大きさや縦書き横書きなどの違いがあり、上記の引用した並びと実際の紙面とでは印象が異なる場合があります。

だった。

今年は日曜日だった「8月9日の長崎原爆の日」と、祝日の「8月11日山の日」の間に挟まれた、8月10日月曜日の朝刊記事。(補足:ちなみに今年の8月12日は朝刊休刊日でした。)

そんな平日かお盆休暇中なのかよく分からない日(人によります)の朝刊の、記名記事でもなく、関連記事も無い、(「決定」でも無い)「政府導入検討」という、1面トップ記事。(前日あった「長崎原爆の日」式典の記事を差し置いて)。

もうこの状況証拠だけで、「これは読売新聞・サカナAI共同分析記事の待望の続編」だと、私は「認知」させられてしまった。(個人の認知です。AIには聞いていないよ)。

そんなこんなな、今回三作目となる「読売新聞・サカナAI共著ストーリー」(個人の認知です)は、前二作を超えることができるのかと(イヤな)予感をさせて、やっぱりすごい、だってばよ。(えっ、ナルトィブ・・・じゃなかった、ナラティブってこういうことじゃないの?)

読売新聞2026年8月10日朝刊大阪本社版、13S1面。紙面をスマホカメラで撮影し部分的に切り抜いて加工。今回記事で取り上げる部分を赤線で囲み、見出しとリード文以外はマスク(っぽい画像)を掛け、「(該当記事以外の)他の見出しとヘッダーの日付・目次等」以外はマスクを掛けた。[撮影加工・2028年8月中旬ごろ]

これまでのざっとしたあらすじ

続編も三作目となると、初めて見る人のために、冒頭で、これまでのあらすじをざっと説明することはよくある。当ブログ記事も、それにならって、これまでの内容を振り返りたい。(えっ、三作目は、予算と納期の関係でいろいろと使いまわすことが多くて、当記事もそのパターンにならってるんじゃないかって? そんなめぐりあいもそらーあるかもね)。(このまとめでもAIは使ってないよ)。

「沈黙の6日間」と「雄弁な6日間」と

読売新聞2026年3月23日朝刊大阪本社版13S1面、3面、7面記事を、(新聞配達の当日頃に)スマホで撮影し(現物はすでに廃品回収に供出済み)、各紙面画面をパソコンでビューワ表示させて必要な部分が写るように重ねながら並べた上でスクリーンショットをして、広告などの無関係な部分を青い四角形、背景部分を黒で塗りつぶし、記事の内容部分をペイントソフトにあった「砂利」という(さかなに合いそうな)スタンプで隠して加工した(一部縮率が異なります)。ちなみに、関係ないですが、右側の背景にたちこま・・・じゃなかった、たまたま映っているのは、記事翌日の読売新聞2026年3月24日朝刊大阪本社版13S18面に掲載されていた全面こうかく・・・じゃなかった全面広告の一部です。まるでその前日のAI共同分析記事を批判しているようだと私のゴースト?がささやいていたので、当時、個人的に写真にとって残していました。同日に載せてくれていればもっと話題になったのにね(個人の感想です)。(写真左側から上記7面、3面、1面、翌日紙面全面広告、のそれぞれ一部分)。[スクリーンショットと加工2026年8月中旬ごろ]

「読売新聞・サカナAI共著ストーリー」の第一作目(個人的なナンバリングです)では、

「沈黙の6日間」

という微妙なキャッチフレーズが用いられ、第二作目(個人的なナンバリングです)でも(1面記事だけだったのにもかかわらず)引き続き登場していた。AIにお金をかけすぎて、コピーライター代をケチったのだろうか(個人の根拠のない妄想です)。

第一作目では、

《前略》。AIが導き出した「沈黙の6日間」の過程を、《後略》

読売新聞2026年3月23日朝刊大阪本社版、13S総合3面。スキャナー”静観一転 中国硬化 対日批判急増”(政治部 阿部雄太、井上暢)。

と、「AIが導き出した」と書かれているので、「考えたのは私じゃない、AIだ」という記者の言い逃れも可能かもしれないが、そうだとしても「AIが導き出した」(微妙な)ワードをそのまま記事にした責任はあり、その理由を説明すべきだし、当然そうするものだと思っていた。

ところが、その過程を「日中両政府関係者への取材で探った」[同上]とかいう内容の記事を読んでも、「なぜ6日」なのか、結局よく分からなかった(個人の理解力の限界です)。

「沈黙」としている期間中にも、投稿が増加したり低下している動きがあることを(読売自身が)分析しているので「全然沈黙してないじゃん」とつぶやきそうになったり(個人のつぶやきです)、
(「沈黙」が終わった11月13日の後の「6日後」の)11月19日にピークが来ていることを(読売自身が)分析しているので「こっちの『6日間』のネーミングはしないの?」とつぶやきそうになった(個人のつぶやきです)。

読売新聞2026年3月23日朝刊大阪本社版、13S総合3面[同上]を、(新聞配達の当日頃に)スマホで撮影し(現物はすでに廃品回収に供出済み)、パソコンでビューワ表示させてスクリーンショットをして、無関係な背景部分を切り取り、記事の内容部分をペイントソフトにあった「砂利」という(さかなが好きそうな)スタンプで隠して加工した上で、論評のためにマーカーや説明を加えた。[スクリーンショットと加工2026年8月中旬ごろ]

読売とAIによる今回の「沈黙」の期間の区切り方の根拠自体がよく分からない所があるが(個人の理解の限界です)、仮にその区切りに従うとして、きっかけとなった「高市答弁」(2025年11月7日)の日も「沈黙の」一日に含めるべきなのか、あるいは、答弁直後からその日の夜までの期間と(次の日からまるまる中5日を経た)13日当日の投稿が反映するまでの頭と尻部分を合計して一日として加えて6日とするべきなのか。いったい、「沈黙の何日」とするのが正解なのか。

沈黙は、六日なのか、七日なのか、なのかようかここのかとうか。

連日3時間しか(昼)寝てない私には判断がつかなかった(この睡眠時間は自己申告です)。

ただ、この「沈黙の6日間」が「6」になった理由については、私独自のせいぜいAI(仮称)による分析で、既に「考察」済みで、

読売新聞・サカナAI共同分析記事が「沈黙の6日間」というワードを用いたのは、

当ブログが、「読売新聞が、『高市答弁』について『タカイチさんは悪くない、質問した方が悪いことにしよう』、という趣旨の社説を掲載するまでが6日」と指摘しており、
(当ブログの記述を読み込んで学習したバカナ)AIがその影響を受けた、

というものだった。(当ブログ独自のせいぜいAI?による仮説で、一部意訳と省略が含まれています)。

読売新聞の当該期間(2025年11月7日~11月13日)の社説タイトルについては、読売オンライン[会員登録が必要]の紙面記事検索で「[社説]」というワードと当該期間の設定で表示された画面をスクリーンショットして切り取って貼り付け、枠を作成し、引用者にて説明を加えた。右の当ブログ記事も画像で表示しているアドレスページの該当部分をスクリーンショットして切り取って貼り付け、枠を付けて説明を加えた。[検索とスクリーンショットと加工2026年8月中旬ごろ]

この件(当ブログが先に「六日」というワードを使っていたこと)については、

私がサカナを釣ったのか、私がサカナに釣られたのか。

同上、当ブログ記事。”「認知戦」とかいうものを仕掛けているのか仕掛けられているのかよく分からない読売新聞はやっぱりすごい”[2026/03/25公開]

と、(我ながら)ウマいことを言っているのだが、誰も褒めてくれなかったので(当ブログ記事の反響です)、今回、諸々わざわざ画像を作成したりして、再掲した。

「沈黙の6日間」と言いながらいろいろなことを雄弁に語っているかのような読売新聞・サカナAI共同分析記事は、なぜ「6日」としたのかの疑問に対して、「ろくでもない」とツッコんでほしいのか、「ロックだね」と褒めてほしいのか、よく分からなくてすごい。ろっけんろー。

サカナAIを肴に添えて

今シリーズ作では、読売新聞が共同で分析したお相手のAI会社が、「サカナAI」とかいうお名前だったこともあり、ネタが豊富で私もついつい釣られて、道草を食ってしまうことになる。(以下前作までの海草・・・じゃなかった回想)。

「サカナAI」とかいうその名称と、本社が東京だということから、てっきり「日本語」の大切さを訴えるものかと思ったら、第一作目では謎のままで、(「沈黙?の6日間」を経て公開された続編の)第二作目で(少しだけ)明らかになった。(個人の解釈です)。

上記で作成した「読売新聞2026年3月23日朝刊大阪本社版13S1面、3面、7面記事写真の各紙面画面を並べたスクリーンショット(一部縮率が異なります)」と、「読売新聞2026年3月29日朝刊大阪本社版13S1面記事写真」を並べ、関係ない部分をカットまたは塗りつぶし、記事本文の文字画像が判別できない程度に縮小した上で、引用者によりマーカーと説明を加えた。なお、第一作目(個人によるナンバリング、以下同)は高市答弁2025年11月7日とその前後(基本的に同年内)を舞台としており、第二作目はその翌年の衆院選時(投票日2026年2月8日)を舞台としているものの「英語発信強化」については「昨年11月から」の分析したものになっている。(引用者による、AIを使っていない解釈です)。[スクリーンショットと加工2026年8月中旬ごろ]

まさかの、(日本語よりも中国語よりも)英語重視、という結論だった。まさかまさかのまっさかさまな結論を出すさかなAIかな。日本語国産AIの話はどこ行ってん。

いったい、第三作目ではどうなってしまうのか。(知ってるくせに)

また寄り道してしまったが、第二作目でも、次のようにネタは豊富だった。

読売新聞2026年3月29日朝刊大阪本社版13S1面記事の撮影した写真の、記事後半部分と、記事とは無関係な背景部分を切り取り、記事本文の内容の一部をペイントソフトにあった「砂利」というスタンプで隠して加工した上で、論評のために当ブログで過去に指摘した部分(同上)のスクリーンショットを抜き出して貼り付けて枠で囲み、マーカーや説明を加えた。[スクリーンショットと加工2026年8月中旬ごろ]

当ブログでの第二作目感想記事での、

「予備校の成績アップグラフみたい」、からの「浪人の感想です」、
「今日はこれくらいにしといたろか」、からの「個人のメダカです」、

あたりは(同上画像で引用)、我ながら秀逸だったと思うのだが(特に後者はサカナにもかかっている)、誰も褒めてくれなかったので(当ブログ記事の反響です)、今回またまた、諸々わざわざ画像を作成したりして、再掲した。

ざっとしたこれまでのあらすじの回想は以上です。(というか反響の無かった過去作の批評を再利用したかっただけでは・・・)

ここから本編

そんなこんなで読売新聞で、第一作目(2026年3月23日朝刊)と第二作目(同3月29日朝刊)が公開された後、少しの期間を置いて、ようやく、第三作目(個人のナンバリングです)が8月10日朝刊に公開された。

《当記事冒頭画像の再掲載》。”読売新聞2026年8月10日朝刊大阪本社版、13S1面。紙面をスマホカメラで撮影し部分的に切り抜いて加工。今回記事で取り上げる部分を赤線で囲み、見出しとリード文以外はマスク(っぽい画像)を掛け、「(該当記事以外の)他の見出しとヘッダーの日付・目次等」以外はマスクを掛けた。[撮影加工・2028年8月中旬ごろ]”

二作目後の沈黙から三作目?登場

二作目から、えーっと、4カ月とちょっとの「沈黙」を経てからの公開・・・。どうせなら、もうちょっと我慢して6ヶ月後にしとけば、「6」にちなんだ「沈黙の6○間」の公開になっていたのにー。(ちょっと航海・・・じゃなかった後悔。)

それはさておき、初めに断っておくが、今作では、「読売新聞・サカナAI共同分析記事」とは一切明示されていない。(個人の確認です)

また、さっき、二作目から4か月とちょっとの「沈黙」、と言ってしまったところだが、実際には、読売紙にはその期間も、サカナAIについてやその共同代表?とかいう人のインタビューとかシンポジウムとかの記事か広告かよく分からないようなものが、ちょこちょこ載っていた記憶はある。(個人の記憶です)

そんな状況を差し置いて、今作を、「これが第三作だ」と、(私が)「認知」してしまったのは、二作目同様、

  • (唐突な)朝刊1面トップ記事
  • 無記名記事
  • 1面だけで関連記事無し
  • (意味不明な)図による説明

があったからだ。(個人の認知です)

「読売新聞2026年3月29日朝刊大阪本社版13S1面記事写真」(写真左、第二作目。個人のナンバリングです。以下同様)と「読売新聞2026年8月10日朝刊大阪本社版13S1面記事写真」(写真右、第三作目)を並べたスクリーンショット(一部縮率が異なります)の、関係ない部分をカットまたは塗りつぶし、(「読売新聞・サカナAI共著ストーリー」(個人の認知です)のネタバレ?にならないように)記事本文の文字が判別できない程度に縮小した上で、引用者により説明を加えた。右側画像は新聞の折り目の癖が残ったままで斜めから撮ったので思ったような比較になっていないような気もするが(現物は廃品回収に出してなければ外にまだあるかもだが、暑いし蚊に刺されるかもなので撮り直すのは諦めました)、伝えたいのは、1面トップに似たようなレイアウトで記事が載っていたということです。[スクリーンショットと加工2026年8月中旬ごろ]

もちろん、これだけでは、三作目だという確証は得られない。

(他紙では知らないが読売では)関連記事の無い朝刊1面トップ記事は珍しくもなく、(まるで第三者から依頼されたような)(政府)広報的な記事が(関連記事もなく1面トップだけに)唐突に載っていることはよくあり、今作にもそういった面があるのも否めない。(読売新聞を熟読してきた個人の否めないです)

(新聞社にとって)その日一番注目して欲しい渾身の記事だから1面トップにしているはずなのに、その1面右肩トップ記事だけで完結して、関連記事無し。ひょっとして、他紙にスクープが漏れないようにギリギリに載せたり、速報性を重視してとりあえず1面に慌てて載せて、関連記事は間に合わなかった可能性も疑ったが、その日の夕刊、次の日の朝刊にも、(目立った)続報は無かった。(個人の記憶です)

当日の新聞朝刊1面は、(政府が)「検討」という(見切り発車的な)見出し、(二作目からの続きを想起させる登場人物というか魚類?ほかを含む)記事本文と説明図の配置の一方で、関連記事の告知無し。これらはすべて「これは第三作だ」と私に「認知」させる方に向いていた。(個人の認知です)

そうして期待を胸に(フグのように)膨らませながら記事を読んでみると、内容もネタぎっしりで、「第三作だ」という予感は確信に変わった。(フグとはちがうのだよ、フグとは。以上の予感は、早すぎた個人の確信かもしれません。正しいかどうかは、この後の内容を見て個人の責任で判断してください。)

「国産」と「外国産」と「米国産」と「中国産」と

今作記事では、冒頭大見出しで「国産AI」と表記しているのだが、よく分からなかったのが(個人の理解力の限界です)、なにをもって「国産AI」としているかだ。

「国産」ではないものを、「国産」と言い張った場合は、「産地偽装」になる恐れがある。

もちろん、読売の今作記事(とイメージ図)では、

「外国製AIなどと連携」
(同社は開発段階で)「中国のAIモデルも利用していたが」(排除する)
「米国製などのAIが情報を収集、分析、評価」
「中国製AIを排除」

同上、読売新聞2026年8月10日朝刊大阪本社版13S1面記事本文とイメージ図からの抜粋(と引用者による補足)。

と、(ある意味正直に産地を)明記しているので、明確な意思(悪意)を持って「国産偽装」しているとは言えないだろう。(個人の好意的な解釈です)。

たとえば、農作物や機械などで、肥料の一部が外国産だから、部品の一部が輸入だから、という理由だけで、「これは国産ではない」と言うつもりもない。それぞれの、法律・法令にしたがって「国産」と名乗っているのなら、それは「国産」なんだろう。(個人の納得です)

ただ、寡聞にして、AIが「国産」と名乗るのに必要な条件を定めた、法律・法令または業界指針等があるとは聞いたことがない。(AIについて読売新聞を「熟読」してきた程度の個人の知識で語っています。以下同様)。

読売が記事の見出しで「国産AI」と言っているのは何を根拠にしてのことなのか。

今作の読売記事から解釈する限り、「外国製AIなどと連携」、「米国製などのAIが情報を収集、分析、評価」[同上]と(堂々と)表記しているので、「外国製」が含まれていても「国産」になるようだ。

一方で、「中国製AIを排除」[同上]と(執拗に)強調しているので、「中国製」が含まれると「国産」では無くなる、とも主張しているようにも解釈できる。

ここから導き出せるのは、読売新聞は、「米国産」や「外国産」でも「国産」だが、「中国産」だけは「国産」ではない、と言っている、ということだ。(読売新聞記事を読んだ個人の結論です)

確かに、「米国産」や「外国産」も「国産」の文字が含まれているので、「これは国産だ」という読売の主張にも一理・・・も無いな。「中国産」を「排除」してるのだから。

いや、待てよ、「中国産」だけ「排除」しているということは、「中」を抜けば「国産」になる、と示唆しているのか。

「表示偽装」、「偽装請負」、「品質不正」、「データ改ざん」、「公文書改ざん」・・・、近年、日本を代表する企業や組織で発覚した、これらの不正は、ある意味、大事なものを「中抜き」することで起こった。そしてそれは過去形ではなく、継続して起こっている。まさに「中抜きニッポン」を示唆するものだ。

つまり、「中国製排除」とは、「中を抜くこと」の暗喩で、「(中抜きして)産地偽装」することこそ「国産の本質」だ、とする読売新聞の「ナラティブ」だったのだー。(な、なんだってー。個人の何だってです)

あえて(外国の)「産地」を明記することで、「国産」と言い張って「『外国産』にも『米国産』にも、”国産”の文字が含まれているから産地偽装ではない」と言い訳するのかと思ったら、実は、「中」を抜くことで「国産」になるという、ある意味、「(産地)偽装の国ニッポン」の本質をついてくる「ナラティブ」を展開しているかのような、「読売新聞・サカナAI共著ストーリー第三作目」(個人の認識です)は、予想を上回っているのか下回っているのかよく分からなくてすごい。

「読売新聞2026年8月10日朝刊大阪本社版13S1面記事写真」の、関係ない部分をカットし、(「読売新聞・サカナAI共著ストーリー」(個人の認知です)のネタバレ?にならないように)記事本文の大部分をマスクし、引用者によりマーカーを引いて文章をピックアップして、説明を加えた(※色分けとかコメントは個人の「イメージ」です)。プライバシーとか諸々の保護のため、画像と文字の一部を黒塗りにしています。[スクリーンショットと加工2026年8月中旬ごろ]

補足:
なお、2026年8月19日の読売新聞朝刊国際面には、こんな記事が(あまり目立たない位置で)載ってましたとさ。

「読売新聞2026年8月19日朝刊大阪本社版13S9面国際面の記事写真」の、関係ない部分をカットし、引用する記事「同、ワシントン=中根圭一、”米 安保技術に外国人登用 AI、宇宙開発 受け入れ慎重一転”[同]」の該当部分をピックアップして拡大した上で、記事本文の大部分をマスクし、引用者によりマーカーを引いて文章をピックアップして、説明を加えた(※色分けとかは個人の「イメージ」です)。[スクリーンショットと加工2026年8月ごろ]

(記事によれば)「米国産AI」も「外国人登用」して開発するそうですって。魚心あれば水心ですね。(サカナだけに)。

AIは「国産」の夢を見るのか

そもそもよく分からないのが、記事では、「国産AIを中核に据え」れば、「情報を収集、分析、評価」するのが「外国製AI」でも、「国産AI」だ、と当たり前のように言っていることだ。

逆ではないのか。(ギャグではないのか)。

「情報を収集、分析、評価」することこそ、正味の中身であり、「中核」ではないのか。その外側を「国産」にしたら、その中身も「国産」になると言いたいのか。

例えば、キーボードとマウスを国産にすれば、そのパソコンは国産になるのか。iPhone(Apple社)は日本の携帯通信会社と通話契約すれば、日本製になるのか。あるいは、アイホン(アイホン株式会社)と発音すれば日本製になるのか。

それはさておき、「情報を収集、分析、評価」することこそ「中核」であり、重要なのではないのか。

一方で、最終的な判断は人間である。仮にその判断までもAIに任せるのなら、複数の(海外製を含む)AIが収集した「情報」を最終判断して決断するAIが「国産」であることを求めるのは当然かもしれない。

ただ、読売記事でのイメージ図では、「(中国製AIを排除した米国製などのAIと、国産が中核の司令塔の)AI」と「現場の指揮官ら」とが分けて書かれていて、後者が上に(図的にも権限的にも)描写されているので、最終判断するのは責任者である人間であることは、(さすがに)読売も理解しているようだ。

そうなると、読売(の記事)は、「情報」を「収集、分析、評価」する(複数の)AIは海外製でもかまわないが、それをまとめる(だけの)AIは、「国産」であることが重要だ、と主張しているように見える。(というかそう言ってるようにしか見えない。個人の感想です)

ひょっとしたら、(現在の)幕僚の役割をAIに代替させる(安易な)発想なのかもしれない。あるいは、旧軍の参謀に対しての印象が悪すぎて、「多くの兵を死に至らしめながら戦後ものうのうと生きぬいてウソの経歴で議員にまでなりやがって許せん」と思っていて、そんな(日本産の)参謀を生むぐらいならAIに任した方がマシだ(経歴を詐称する人間をトップにするぐらいならAIの方がマシだった)、と考えている(後悔している)のかもしれない。そうした理由で、その部分(参謀、幕僚)までもAIに任せるつもりなのであれば、せめてそこを「国産AIに」、とこだわる理由は(百歩譲って)理解できなくもない。

ただしそれは、言ってみれば、幕僚の役割を、「AIを使えば事務作業を削減できる」というレベルで考えているのに等しい。(空っぽの頭の連中がチームになってアサッテな未来にAIスゴイと言っているだけだったり、クビや身や木を切ることが改革だと思っている連中が考えそうなことだ)。

幕僚のことを、集めた情報をPowerPoint(Microsoft社製)で見栄えよくまとめて指揮官に提出するだけの役割だと考えているのだろうか。

そう理解するのは勝手だが、それならそれで、そのAIが「国産」である必要はあるのか。「事務作業を削減できる」レベルの役割をAIに任すのであれば、「現場の指揮官ら」の判断の手前となる、複数の(海外製の)AIが「収集、分析、評価」した「情報」をまとめる(だけの)AIが、「国産」であることの、何の意味があるのか。

極端に言えば、個々のAIの情報を、プレゼンテーションソフトでA4サイズの紙1枚に(瞬時に)まとめるAIが、「国産」である必要はあるのか。(クローズド環境であることは大前提です)。

それとも、ガワだけ国産であれば、中身が何であろうが安心していい、と読売は言っているのか。

仮に、国産のキーボードとマウスを接続さえすれば、(海外の工場で作られた海外製のOSのパソコンだったとしても)このパソコンは国産だ、とはならないだろう。

仮に、海外の工場で大量生産されて、通販とか(昔で言う)バッタ屋みたいな店とかいろいろなルートで販売されている「コードレス○○」に、「○グループ」(仮称)のロゴを付けたからと言って、その商品は「国産」にはならないだろう。

仮に、大量に仕入れることで、ガワに「○グループ」(仮称)のをロゴを付けて、BSチャンネル等で、個性的な社長と、なぜアシスタントなのか(見ている者に勝手にゲスの)勘繰りをさせてしまいそうな歌っているのを見たことのない(個人の経験です)歌手の肩書の人とで、購買意欲をあおるオマケをつけてCMを流しまくって、「シャチョーウー、やすぅーい」と言ったからと言って、その商品は(以下省略)。

補足:
話がそれたように見えるかもしれませんが、当記事は、実在する「○グループ」(仮称)を、揶揄する意図は全くございません。そんなことは夢にも思っていません。むしろ、(AIとは正反対の)夢のある、優れたビジネスモデルの一つだと感心しています。(注:私は経営学の専門家でもなく、専攻もしたこともない初心者で、昔に聞きかじった程度の知識と素人の想像でものを書いています。当記述から連想されるかもしれない当該事業社についての正確な内容を描写をしているものではなく、実状を保証するものではありません。あくまで素人個人の想像によるものです。以下同様)。
大量仕入れ、大量宣伝、大量販売を基本としつつ、(テレビ)通販の主要な価格帯をターゲットにして(特に1万円前後あたりか)、メーカー名が前面に出ないコモディティ商品に絞って仕入れて、特徴的なCMで周知させ、商品本体に自社グループの名前をプリントすることで、まるで自社ブランドのように認知させるのは、小売り大手がオリジナルブランドでプライベート販売する手法に等しいと思えます。実際に、紹介・販売されている商品が、他社(通販)やディスカウントストア等でもまったく同じ製品と思われるものが似たような価格帯で売られているのを目にしたことは何度もありますが(ただし、「二本セットで」とか「洗剤をお付けして」などの差別化はあり)、「○グループ」(仮称)で売られている商品には「○グループ」の名称がプリントされているのをよく見ます(全て確認したわけではありません)。この「商品への自社名のプリント」の経緯は知りませんが、仮に「大量に仕入れて買い切るからその商品への社名ロゴのプリントは、やすーくして(タダにして)」とかの交渉の結果のようだったとすれば、大量仕入れで単純に仕入れ値を下げるだけでなく、自社のロゴを入れることで、購入使用者にはもちろん、それを使用しているのを見た周囲の人たちにもブランドの宣伝となり、結果的に自社ブランドとしての広告費を安く仕上げるという、優れたビジネスモデルだと言えるのではないでしょうか。ひょっとしたら、既に、どっかの海外のビジネススクールでは、教科書に載っているのかもしれませんし、そうであれば、どっかのビジネス書が「○○スクールでも教科書になった」と勝手に宣伝してくれたりしてくれるかもで、またブランド力が上がって、夢がありますねー。(繰り返しになりますが、以上は、初心者の、昔聞きかじった程度の知識と思いつきで書いたもので、実際どうなのかも、学問的に正確な内容をも、保証するものではありません。)

《参考画像》。「読売新聞2026年8月17日朝刊大阪本社版13S20面広告面と21面(一部分)の見開き」に「同日折り込みで入っていたチラシ」(地域や販売店により内容が異なります)を21面の紙面の上に重ねて写真撮影し、編集・加工した。関係ない部分(21面ほか)をカットと塗りつぶしで隠し、商売の妨害にならないように金額や販売者名等を黒塗りで隠した。というか、新聞広告と折り込みチラシは担当が違うとはいえ、同じ日にほぼ同じ商品の(違う販売者の)新聞広告掲載と折り込みチラシの新聞配達をかぶらせるのは、商売の信義上いかがなものかと思うべきか、反対に、競合同士の忖度なしの活発な競争とみて好意的に見るべきか。なお、当記事で書いたことの証明のため、それぞれの商品写真の一部を拡大した(正確には、著作権侵害にならないようにいったん画質を落として全体像として張り付けた後に、元の写真の画質のまま切り抜きを貼り付けて内容が分かるように適当な大きさで拡大縮小し、拡大写真として貼り付けた)上で、特定できないように一部黒塗りの努力はしました。それ以外の理由でも、プライバシーとか諸々の保護のため、画像と文字の一部を黒塗りにしていますが、ここまで配慮しても何が書いてあるのか特定できるのなら、もうそれはパブリシティーと言ってもいいんじゃないんですか(個人の感想です)。[スクリーンショットと加工2026年8月中旬ごろ]

そんなこんなで、自衛隊指揮のAIで国産とか外国産とか、「夢」みたいなことを語っている読売新聞記事は、やっぱりすごい。

さらば純国産AI、さらばサ●ナAI、さらば読●新聞、さらば愛しき夢追い集団(グループ)たちよ。

「もう二度と姿を」・・・じゃなかった、「あなたが生き続ける限り」・・・(以下省略)

《終》

まさかな夢オチ!?

(・・・シャ、チョー・・・、ヤ、スーイ・・・)

・・・とここまで書いてきて、ワレに返った。何が、「《終》」(テキストの配置右寄せ)なのか。変な感じで勝手に完結させるな。(自問自答)

そもそも、「さらば○○」とのサブタイトルで、実際に完結だった試しなどあるものか。どうせ死んだと思っていた登場人物が生き返って続きがあるんでしょう?(個人のヤマト魂です)

それにしても、私は、読売新聞記事の(サカナAIが有力という)自衛隊指揮AI[同上]の話をしていたはずなのに、なぜ、(大して思い入れも無い)「●グループ」(仮称)のことを(私の薄っぺらい知識で)一生懸命語ってしまっていたのか・・・。

(・・・コンナコトモアロウカト・・・)

こんなこともあろうかと、前もって、当ブログ記事の実際の流れを整理しておいた。(個人のサナダです)。

2026年8月10日(月)読売新聞朝刊に「読売新聞・サカナAI共著ストーリー」の第三作(個人の認知とナンバリングです)が掲載され、前作に続いてそれに触発された私は、お盆休み(個人差があります)ということもあって、当ブログ記事を(だらだらと)書き始める。

ところが、記事を完結できないまま(だらだらしてたので)、(世間一般には)お盆休みも終わるのだが、2026年8月17日(月)読売新聞朝刊(と折り込みチラシ、地域差があります)に、「●グループ」(仮称)商品の全面広告(と他社の折り込みチラシ)が掲載されていることに気付く。今思えば、この時に、私は(どっかの誰かから)「認知戦」を仕掛けられていたのかもしれない。理由はよく分からないが、その後、私は「夢」というワードに引きずられることになる。

「●グループ」(仮称)について、私は、上記で取り上げたビジネスモデルを評価しているだけではなかった。以前からずっと、CMの特徴の一つである、不自然とも言える社長とアシスタントの関係性が、見ている者に「認知的不協和」を引き起こすと同時に、その不協和を低減させる方向に(勝手に)誘導させられる仕組みは、ある意味、高度な「認知戦」の事例だ、ということに私は気付かされていたのだが、この私の気づき自体も(誰かによって)誘導された可能性がある。(この「認知」については、この当記事のあとでオマケで少し述べます。)

今回の、2026年8月10日読売新聞朝刊から「中6日の沈黙」を経ての2026年8月17日読売新聞朝刊の(AIとは正反対の位置にあるようにしか見えない、個人の感想です)「●グループ」(仮称)の全面広告(と同日の同業他社のほぼ同製品の折り込みチラシ)により、私は既視感を覚え、何度も同じことを繰り返していることに気付いた。

何度も繰り返される読売新聞のAI記事、そのツッコミどころの多さに我慢できずに思わず(誰も読んでいないけど、せめてAIが読んでくれることを期待して)ブログ記事を書いてしまう私・・・。

同じことを繰り返していると気づきそうになると同時に、次の読売新聞AI記事が出て、再びブログ記事に取り掛かってしまう私・・・。

このループが永遠に繰り返されるのかと、薄れゆくおぼろげな記憶の中、遠くで声が聞こえたような気がした。

「ゼイコミデイチマンエン」、「シャチョーウー、やすぅーい」

私の中で、「夢」という言葉が、グルーヴした。(どういうこと?)。

私のゴーストが「やすぅーい」とささやいて、私は現実に戻され、目が覚めた。

これは夢だったのか・・・。ずっと長い間、夢を見ていたような気がする・・・。

同じような記事を繰り返す、典型的な古典的プロパガンダを繰り返しているのかと思わせる一方で、同業他社の同等製品を新聞広告と折り込みチラシで同時に掲載と配達をするという斬新な手法を取って夢から読者の目を覚まさせるような、読売新聞(の記事と全面広告と折り込みチラシ)は、「認知戦」を仕掛けているのか仕掛けられているのかよくわからなくて、夢があって、これで完結になりそうで、やっぱりすごい。

・・・という夢を見た。

本編は以上です。(という、タイトルですでにネタバレしてたまさかのやすーい夢オチでした。開封後の返品は一切受け付けません、とかなんとか)。


おまけの蛇足:「認知」について。

ここから、「あとがき」みたいなもの。(言い訳です)。

今回、当ブログ記事で、唐突に「株式会社夢グループ」様について言及したのは、当初意図したものではなく、該当記事の1週間後の読売新聞に全面広告(と折り込みチラシ)が入っていたことによる偶然だったのですが、結果的に、「夢オチ」という、作者的にこれでいいのか、と思わせる終わり方になってしまいました。(夢に助けられたのか、夢に引っ張られたのか・・・)。(どうでもいい話ですが、当初は、当記事を、映画版ヤ●トやガン●ムの三作目をこすってテキトーに関連付けてお茶を濁らせて終わらせようと思ってましたが、中途半端でいまいちな終わらし方しか思いつかなかったので、それを採用せずに済んで、結果的に「夢オチ」に助けられたかと、個人的には思っています。どうでもいい話ですが)。

ただ、「夢オチ」にするためだけに、たまたま広告掲載されていた「夢グループ」に言及したのではありません。今作のテーマの一つである「認知」という面でも、重要な題材となると思ったからです。

最近になって多用されているように見える、「認知戦」だとか「認知バイアス」だとかの言葉が、分かったようでよく分からなく、どこか薄っぺらく感じてしまうのは、社会心理学の古典とも言える「認知的不協和の理論」(フェスティンガー)を踏まえずに理解しようとしてしまうからでしょう。(個人の感想です)。(注:私は社会心理学の専門家でもなく、専攻もしていない素人の初心者で、学問的に正確な内容を保証するものではなく、昔に聞きかじった程度の知識と素人の想像でものを書いています。以下同様)。

上記で取り上げた、「株式会社夢グループ」については、ある意味語りつくされているとは思いますが、不自然さが強調される社長とアシスタントとの組み合わせが、結果的に注目を浴びることになっているのは、社会心理学で言う「認知的不協和の理論」を利用したものだと考えられます。

不自然さをあえてそのまま出すことで見ているものに認知的不協和(違和感)を起こし、見ている側はその不協和を軽減するためにいろいろと勝手に解釈させてしまう手法です。(大規模災害時にデマが発生する仕組みとしても知られる。「大規模災害」という非常時の「認知」と、一方で「目の前の日常」という平常な「認知」が、「不協和」を起こし、その不協和を低減させるために「本当は何かもっと悪いことが起こっているにちがいない」などと思ってデマを受け入れやすくなる)。

[注:
これはあくまで古典的な理論の概要であり、すべてを説明しつくせるものではなく、すべてに当てはまるものでもありません。「目の前の日常」は、「大規模災害への認知」と「不協和」を必ず起こすのではなく、むしろ軽減させるものとして働くことがあります。例えば、大震災の直後、新聞紙面が被害の報道で埋め尽くされて押しつぶされそうになる中、いつもの紙面と同じ場所で連載小説が続いているのを見て、平静さを取り戻した、と後日、経験談を語る人たちもいます。]

上で述べた、「読売新聞が、『高市答弁』について『タカイチさんは悪くない、質問した方が悪いことにしよう』、という趣旨の社説を掲載」にも見られますが、発言した『高市』が根本の原因であることは読売自身がよく分かってはいるのですが、その「タカイチさん」を責めることができなくて「不協和」が生じ、その「不協和」から逃れる(軽減する)ために、質問した方に(執拗に)責任に転嫁する、という仕組みでした。(注:ここでは、読売自身がこのことを意図していなかったのか、あるいは意図した上で採用したのかどうかを問うものではありません。)

これは、過去にも指摘しましたが、いじめにおける、「第三者だったものが、第三者からいじめの加担者になる仕組み」と同じで、「いじめを目撃している自分」と「目の前のいじめを止められない自分」の不協和に耐えられなくて、「いじめられている方が悪い」と被害者に責任を転嫁する仕組みです。(類似例で言えば、「ボランティアが必要な状況」と「ボランティアに行かない自分を責められたくない」の不協和に耐えられなくて「ボランティアはいま必要ない(ボランティアに行かない私は悪くない)」とすることなど)。

これが厄介なのは、「私は善人だ」、「私は良き隣人だ」といった自負が強ければ強いほど、第三者になりきれずに、当事者として意識が強くなり、当事者として解決できないことに直面する目の前の「不協和」から逃れるために、被害者側のせいにして、結果的に加担者になってしまうことです。

認知的不協和は、権力があればあるほど、権力のある側に有利に動きます。

権力があるがゆえに、不協和があっても、権力の階層にいる人たちは、権力者の有利な方向に、勝手に解釈してくれるからです(上記読売社説のように)。例えば、仮に、「8月15日、サナエがパーキングで『Yo-hi』とバーニング」と意味不明なことを書いても、それを読んだ支持者は「サナエと書いてある、これを書いているヤツは○寄りだからタカイチさんを批判しているのだな」と、「不協和」を感じて、捨ておくことはできずに、権力者を擁護する意見を数パターン、勝手に考えてくれることでしょう。

参考:たまたまですが、2026年8月22日読売新聞朝刊にも、分かりやすい例がありましたので、参考までに載せておきます。

《参考画像》。「読売新聞2026年8月22日朝刊大阪本社版13S3面政治面(画像左)と23面社会面(右)」を並べ、一部分を拡大し、編集・加工し、引用と説明を付けた。関係ない部分をカットと塗りつぶしで隠し、公職選挙法違反にならないように当記事で引用しない政治家の写真や名前を黒塗りで隠した。というか、記事本文と名前と写真の一部を隠しても、見出しとレイアウトだけでも読売のヨイショ具合は隠せてませんね(個人の感想です)。政治面での首相のX内容記事は、首相の言い分をXで見て書き写しているだけなので記事と言っていいのか疑問で、そもそもそんな(昔の雑誌のペンフレンド募集欄みたいな)コピペテンプレート記事(個人の感想です)に読売の著作権があるのか、と思いましたが、孫引きになって元の著作者から「これは私的文書でワタシが著作権者だ」とかいう無茶苦茶な主張をされるのも厄介なので、一部黒塗りにしました。同日社会面の特集記事は、「政府に反対するヤツはだいたいbot」と言いたいだけの記事でした(個人の感想によるまとめです)。主に取り上げてる「検察庁法改正案抗議」にしても、(寡聞にして知らない)どっかの大学の先生にわざわざ依頼して調べてもらったとのことで、「政府広報的なことをしてハシゴ外されたのはアナタなのに未練がましいったらありゃしない」としか思えません(当ブログ記事[https://webstarterzy.t-hajime.com/yomeyomiuri-kensatsutyouhoukaisei-miokuri-20200520/]ほか参照)。ただ、そのどっかの大学の先生の調査で、わざわざ選別して取り上げたテーマでも、4割程度しかbotと分類できず、6割はbotじゃなかった(分類できなかった)とかいう、結果だそうです(個人の解釈です)。まあ、早い話が、同日の読売新聞に、政治面で首相の言い分をそのままファクトチェックせずに載せてるくせに、社会面で「調べたら政府に反対する意見や野党支持者にbotがいた(けど政府に賛成する意見や野党中傷動画を拡散したのがbotかどうかは知らん)」(個人によるまとめです)という記事を載せていたということです。[スクリーンショットと加工2026年8月下旬ごろ]

補足:これは、一義的には、
「読売新聞(記者)は、タカイチに原因があることが分かっているけど、タカイチさんを追及できないジレンマから逃れるために、野党を(執拗に)追及する」
という上記で指摘した内容と同じ流れですが、一方で、私サイドから見ると、
「読売新聞の政治面と社会面に違和感のある記事が載っていたので、その不協和の原因を探して、何が原因か分かったので、それをブログ記事にする」
と(私が)「誘導された」と解釈することも可能です。
つまり、同じ「不協和」でも、人によっては、意図した方向に動く場合と、意図とは逆の方向に動く場合があることが分かります。

蛇足:
しょぼい例になりますが、当ブログでも「認知的不協和の理論」を利用していると言えばしていると言えます。唐突な単語が含まれていたり、関係なさそうな何か聞いたことのあるようなセリフを紛らわせていると、読んでいる方は「不協和」を感じ、何か意味があるのではないかと、勝手に解釈してくれます。「見たことないアニメの、どっかで聞いたことのあるセリフをもじっているのかな」とか、「本物は見たことないけど、プロレスファンがよく真似するやり取りの一部なのかな」とか、何か意味があるものとして受け取ってくれます。ホントは「止めることのできなかったダジャレ」以上の意味なんてないのに(ゴメンナサイ)。
意味が分からないときは、あなたのせいではなくて、言っている側がスベッている、とだけ思っておけばいいでしょう。

実際には、「不協和」を意図的に作り出したとしても、その結果、相手が意図した通りに動くかどうかは別問題です。また、不協和を受けた側が、「認知的不協和の理論」を理解していない場合と理解している場合では、異なる結果になる可能性があります。(この場合の「理解」とは、学問的に理解ということだけでなく、「(そんな理論は知らないが)経験的に知っている」というケースも含みます)。

その点で言えば、「認知的不協和の理論」を知っている(経験的に理解している)ことが、「認知戦」だとか「認知バイアス」だとかで語られる現代において、重要になってきます。

このように、「認知的不協和の理論」は、古典でありながら、現代的な意味を持っています。

「認知戦」や「認知バイアス」という言葉で何かを分かったような気にさせられているのかもしれませんが、それは誰かに「利用された」「認知」なのかもしれません。

だからこそ、「認知戦」だとか「認知バイアス」だとかを言う場合は、「それは自分の認知的不協和による居心地の悪さを、権力者を擁護するために利用されていませんか」、と問い続けなければなりません。(繰り返しになりますが、以上は、初心者の、昔聞きかじった程度の知識と思いつきで書いたもので、学問的に正確な内容を保証するものではありません。)


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