先の通常国会では、
「ご飯論法」
という言葉が、注目された。
上西充子、”「朝ごはんは食べたか」→「ご飯は食べてません(パンは食べたけど)」のような、加藤厚労大臣のかわし方”、5/7(月) 16:15 。
https://news.yahoo.co.jp/byline/uenishimitsuko/20180507-00084931/
(参照2018/09/04)
高度プロフェッショナル法案をめぐり、加藤厚生労働大臣のはぐらかしの答弁の手法を端的に示す言葉として、わかりやすく、反響を呼んだ。
「森友問題」でも、「ご飯論法」の答弁はいくつかあって、
「金額の交渉はあったが価格の交渉は無い」、「述べたのは一般的な規則」、「関係するといったのは贈収賄のこと」・・・
などが、思い起こされる。
ご飯論法が、安倍政権の特徴だと言ってしまえばそれまでだが、今回とりあげるのは、「森友問題」における「ご飯論法」ではない。
私が提示したいのは、「ゴミ論法」だ。
「森友問題」では当初から、「ゴミの存在」が議論となっていた。この「ゴミ」については、いくつかの経緯を経ているため、発信する側によって意味が異なっており、受け取る側によっては混乱して分かりにくくなっている。
そしてその分かりにくさを利用して「ゴミがある」と言ったり「ゴミがない」と言って都合のいいように使い分けて悪用する人物も存在する。ここでは、「ご飯論法」のネーミングを借用して、これを「ゴミ論法」と名付け、考察を試みたい。
“「森友問題」「ごみ論法」の研究” の続きを読む