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《以上広告アナウンスでした。以下本文》
「退位された後は、ごゆっくりなさってください」
「本当にお疲れさまでした。退位された後は、ご自分のお時間を使っていただきたい」
退位に関する報道がされるたびに、上記のような街頭インタビューが流れる。
しゃべっている本人たちは、善意で、本心から、そう思っているのだろう。
陛下への心からの敬愛から出た言葉である、と、私にも痛いほどわかる。
でも、退位に関する報道がなされるたびに感じる、私の言葉は、上記のような言葉ではない。
出てくるのは、
「陛下、申し訳ございません。」
平成28年7月。ニュースで報じられた「生前退位」という言葉に、痛みを伴う驚きを感じた。
これまで、陛下の健康を祈り、御代がこのまま永遠に続くと安易に考えていたわれわれ国民にとって、譲位のご意向は唐突に感じた。
それと同時に、われわれ国民が目をそらし続けていたことに、ようやく気付かされた。
平成28年8月8日。「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば 」が報じられた。
お言葉を聞き、陛下のお気持ちが、この国と国民の未来を思い、象徴天皇の務めが安定的に続いていくことをひとえに念じてのことであることが、わかった。
陛下はこれまでも、「国民と共にあること」をお言葉にされ、実行されてきた。
公務では、公平さと政治的中立性に細心の注意を払われ、その中でできることを御身を削るようにお言葉にされ、ご活動されてきた。
文字通り、全身全霊であり、そこには、象徴天皇としての強い責任感のみがあって、無私そのものであられた。
しかし、次第に進む御身の衰えにより、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが難しくなるのではないかと案じられ、譲位のご意向をお伝えになられた。
憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しない。
「権能を持たない」ということは、裏を返せば、(一義的な)責任を持つ必要がないということでもある。
しかしそんな中、陛下は、国と国民の未来を思う重い責務を自らに課し、その責務を全身全霊で果たしてこられた。
陛下と国民の結びつきは、これまで培ってきた相互の信頼関係によって結ばれている。この結びつきは強固である。
ただ、陛下だけは、われわれが思うよりももっと遠くの未来の国と国民をも思い、そのために何が必要かを考えられたうえで、ご決断を下された。
そこにあるのは、「象徴としての務め」の重さであり、「自身が楽になりたい」という我意は全く存在しない。
「象徴としての務め」を果たしたくとも体が言うことを聞かなくなることを危惧し、将来の国と国民を思い、断腸の思いで譲位をご決断された陛下の心情をおもんばかったとき、私には、「お疲れさまでした」などという言葉は出せない。出るのは、
「陛下、申し訳ございません」
だけだ。
お言葉表明後に行われた議論でも、
「天皇は国政に関する権能を有しない」
を理由にして、自分にとって都合の悪い意見には蓋をしようとする動きもあった。また「陛下はお祈りされるだけでよい」、「陛下のわがままだ」、などと平気で口にする、自称「有識者」がいた。
陛下は、国と国民を第一に思い無私の精神でご決断を下された。この国で一番、公平中立であり、高度な結論を導き出された唯一無二の専門家である。
それに対しこの自称家たちは、薄い見せかけ「公」で、私的な名誉欲を隠してもっともらしく語るだけだった。専門家としての中立性に明らかに欠けていた。
政治においてこのような動きがあったことに、陛下には、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
退位の日が決まったが、われわれにはまだやり残したことがある。
陛下はわれわれ国民を信頼し、ご決断をされた。
その信頼にこたえなければならない。
そしてわれわれ国民が陛下の信頼にこたえ、陛下もご安心なされた時こそ、心から申し上げることができる。
「ごゆっくりなさってください」
うわべの言葉だけではなく、この言葉を申し上げられる日が来るようにするのは、われわれ国民の責務である。